はじめて、触れた彼女の唇はとても……とても熱かった。
遠く騒然となる観客席と舞台裏の袖の方を背中に感じて、馳輝晃〔はせ てるあき〕は自分の手の中でぐったりとなっているジュリエット姿の仁道小槙〔にどう こまき〕にしか目がいかなかった。
眼鏡を外したその無防備な顔。
すべては彼の腕に委ねられている――なんていう誘惑だろうと思う。
触れるだけのキスで我慢した、あの頃の自分を今でも 尊敬 している。
〜 輝晃くんの憂鬱 〜
文化祭が終わった、いつかの放課後。
詰め寄ってきた女の子の顔は、ほとんど覚えていない。ただ、小槙が好きなのかと問われて……どうしてそんなことを答えなければならないのかと思った。
当の本人である、彼女が訊くのならどんなに良かっただろう。
しかし、現実に感づいたのは……小槙とは関係のない彼女たちだった。
そして、輝晃が「好きだ」と素直に答えたなら、彼女たちの敵意の矛先は小槙にいくだろうと容易に想像できた。
(そんなことになったら、彼女に迷惑がかかるやないか……)
輝晃からすれば、周りからどう思われようと小槙さえ「好き」でいてくれれば構わなかった。
が。
小槙は輝晃とは違う。
生真面目で、とても優しいのだ。「彼氏」よりも「友人」を選ぶ、そういうタイプだと思う。
良くも悪くも、それが小槙らしいところだったから……輝晃は傷つけたくなかった。
「好きや、ない。冗談……そうや、仁道の反応が可愛いからつい、からかってしまうんや」
だから、表面上は否定した。
(そういや、文化祭の前……仁道は変やった。何か、言われたんだろうか? ――この娘〔こ〕たちに)
気の強い派手な集団の彼女たちに、おっとりとした真面目な小槙が対抗できるワケもない。
助けなければ。
あわよくば、それで小槙に接近しようとさえ思って輝晃は次の日、呼び止めた。
「なに? 馳くん」
その時の彼女に、戸惑った。
(……仁道?)
もともと、ガードの固い彼女のこと。
なかなか打ち解けることはなかったが、それでも輝晃をまっすぐに見た。遠慮がちにではあったが……そこが、可愛いと思っていた。
なのに、今は見ない。
「ん。あの、さ……風邪、もう平気なんかな、と思って」
「平気やよ。いやや、心配せんといてよ! わたし、丈夫なんよ?」
俯き加減でぎこちなく笑って、困ったなあという顔をする。
「 心配せんといてね 」
「ああ。うん、わかった」
まるで、牽制球を受けた気がした。
輝晃を避けるように目線を外す……その仕草さえ、愛しさを覚えるのに口にすることはできなかった。
「じゃ」
二つ分けのおさげを揺らして逃げるように離れていく彼女の背中を眺めて、動けなかった。
迷惑やと言われたら?
いや、困った顔をされただけでどうすればいいのか分からなくなった。
目を外されるだけなら、まだいい。
声をかけること、近づくことさえ許してくれなくなったら……どうしたらいいんや?
輝晃はこの時、皮肉にも小槙が 好きだ と強く自覚した。
もちろん、ずっと「特別」だとは思っていたけれど、「避けられる」ことに 傷つく のは彼女に対してだけだった。
嫌われたくない。
だから、近づくのをやめた。
中学三年の秋の終わり――。
*** ***
輝晃はうつ伏せで目を覚ますと、同じベッドで眠っていたハズの小槙の姿を手で探した。
昨日、風邪をひいた彼女を介抱して……介抱ついでに少しその 熱 を分けてもらった。
熱い身体を抱きしめて眠ったハズなのに。
「……こ、まき?」
目を開けても、彼女の姿は見えない。
布団にぬくもりはあるから、それほどいなくなって時間は経っていないと思うのだが……。
「小槙――」
「あ。起きたん? おはよう」
すっかり身支度を整えた女弁護士の彼女は、キッチンから顔を出すとベッドへとやってくる。
「コーヒー、あるよ? 飲む?」
「小槙」
呼ぶと、輝晃はおもむろに彼女を引き寄せ、口づけた。
「ん、んん……んーっ!」
ベッドに押し倒された小槙は、ドンドンと彼の胸を叩いて抗〔あらが〕った。
ようやく唇を離した輝晃を見上げて、真っ赤になる。
「な。なにすんねん……息続かへんわっ」
ゼハゼハと息を乱した病み上がりの元気な彼女に、輝晃は笑って「朝の挨拶」とペロリと舌を出した。
(「丈夫」っていうのは、ウソやなかったんやなあ)
真剣な眼差しで見下ろされた彼女は、頬を染めたまま戸惑って「なんやねん」と輝晃を上目遣いで睨んだ。
「ん。安心したってコト」
「ふーん、まあええけど」
身を起こすと、小槙は乱れた衣服に「油断もスキもないねんから」と唇を尖らせた。
そして。
「――なあ、輝くん。ひとつ、気になっとってんけど」と、訊いてきたので、輝晃はズボンを履きながら彼女を見た。
「うん?」
「なんで、ここにおるん?」
ベッドの上に座って、髪を整える彼女はどこか目のやり場に困っている。
(ああ、俺がまだ裸だからか)
上だけとは言え、小槙からすれば十分に恥ずかしいらしい。
と、思い至るとどこまでも初々しい彼女の反応に笑いがこみあげてくる。
(あかん、我慢や。俺)
「なんでって?」
「ここ、わたしの部屋やし」
「知ってる」
「わたし、昨日風邪ひいてて……看病してくれたんは助かったんやけど。でも、輝くんに連絡した記憶はないんやけど? 鍵かて……どうやったん?」
「やろうねえ」
くくく、と輝晃は意味深に笑った。
「俺も 小槙 から連絡受けた記憶はないなあ」
「えっと、じゃあ?」
「うん。泉所長に教えてもらったんや、鍵も所長から管理人さんに連絡してもらってたからすぐ開けてもらえたで?」
「なに、考えてるんやろう……ボスって」
明らかに困惑した小槙を抱きしめて、輝晃は「迷惑やった?」と訊いてみる。
「そんなこと……ないけど」
小槙はどうして輝晃がそんなことを言うのか分からないと驚いて、ふるふると首を振る。
「 嬉しかった 」
まっすぐに彼を見て、はにかみながら遠慮がちに……笑った。
――俺は。
触れるだけのキスで我慢した、あの頃の自分を今でも 尊敬 している。
>>>おわり。
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