ゴールデン・ウィークから遅れること、一週間と少し。
東京、丸ノ内に降り立った仁道旭〔にどう あさひ〕はすっかりと春めいた陽気に手を翳し、目を細める。190近くある身長と、ガッシリとした体格で強面の彼は、ズボンから紙を取り出すと歩き始めた。
示された場所までやってきてキョロキョロと辺りを伺うと、「お兄ちゃん!」と彼を呼ぶ妹の声。
「小槙」
彼女の元気そうな表情に少し前まであった旭の懸念は一応落ち着き、すぐそばに立った小さな体を抱きしめる。
「大変やったな、平気か?」
「うん。平気やよ……それより、お兄ちゃん」
「ん?」
「恥ずかしいんやけど、ものごっつー」
頬を染めて睨む様子は兄の知る恥ずかしがりやの妹そのもので……だからこそ、心配だった。
目立つことに免疫のない妹が、付き合っている 男 というのが芸能人だということ。若手俳優の筆頭に挙げられる八縞ヒカル〔やしま ひかる〕こと本名、馳輝晃〔はせ てるあき〕は小槙の小、中、高校と同じ学校の元クラスメートだった……らしい。
高校二年の時に芸能プロダクションにスカウトされ、転校。そのまま疎遠となっていたが、東京で弁護士をしている小槙と偶然に再会。
もともと淡い恋心を抱いていた妹は彼に告白をされると、押し切られる形で付き合い始めたようだ。
芸能人と付き合う、それだけでも大人しいタイプの彼女には決死の覚悟だったに違いない。まして、「結婚」となれば……並大抵の気持ちではないだろう。
そんな妹の気持ちをどう考えているのか、相手の男は公共の電波を使って 公表 した。
詳細を伏せてはいたが、アッという間に芸能記者に追われる身の上となってしまった小槙は働いていた弁護士事務所も休職するハメになり、現在は輝晃の所属するプロダクションの用意したホテルに住んでいるのだという。
「アイツは? 仕事か?」
「う、うん。でも、時間が空いたら来るて……言うてた」
強い旭の語調に小槙は躊躇って、頷く。
「お兄ちゃん、輝くんのこと嫌いやの?」
もちろん、好いてはいない。正月に挨拶があったとは言え、身勝手に妹を晒し者にしたのだ。
怒るな、という方に無理がある。
(そんな顔されたら、決心が鈍るやないか。あー、貧乏くじやよなあ)
不安そうな小槙の頬に親指を添えて、旭は肩を竦めた。
「さあな。それは、ヤツの態度次第ってトコロやけど……」
と、妹に嫌われる覚悟で旭は静かに前を見据えて口元を引いた。
〜 上京物語 〜
妹が高校の頃、旭はちょうど大学生で……生活時間のズレのせいか、互いがあまり顔を合わせなくなった時期だった。
だから、その頃の小槙のことを知っているか、と言われればよくは分からない。優等生の妹のことだったし、学校で問題を起こすようなこともなかった。
日々は平和に、安穏と過ぎていたのだろうと思っていた。
しかし、よくよく思い出してみれば一時期 確かに 彼女はおかしかったのだ。
「おふくろ?」
大学から戻った旭が洗濯機の前で突っ立っている母親に声をかけると、彼女はハッとして息子をふり返った。
「あ。旭……おかえり」
「ただいま。どうしたんや? 変な顔して」
「変な顔て、失礼な……んー、ちょっと気になってもうて」
「何が?」
「あの子の制服やねんけど、汚してしもたとか言うて洗ってるんよ。理由もなんも言わんと自分で洗濯機回してたから」
「……ふーん。小槙かて失敗することはあるっちゅーことちゃうか?」
旭は別段、不思議に思わなかった。
彼からすれば、小槙は大人しすぎるくらいで……逆に心配だったくらいだ。
「せやろうけど……一応、旭も気にしといたってくれる?」
「しゃーないなあ」
と、旭は心配性の母親を呆れたように見つめた。
それから、旭が見る限り小槙は普段とあまり変わりがなかった。
「おふくろが心配してる」と旭がとある機会に伝えると、小槙は心底驚いたように兄を見た。
「お母さんが?」
「そうや。大人しいおまえが、制服を汚して帰ってきて何も言わんかったから……何かあるんやったら、相談に乗るで?」
言うてみ? と促す旭に、小槙は頬を染めた。
「なんも……なんもあらへんけど。お兄ちゃん……」
「なんや?」
旭が訊くと、妹は俯いて首を振った。
長いおさげが跳ねる。
「な、なんでもあらへん! たいしたことやないねんっ、気にせんといて!」
その顔が真っ赤だったから、旭は(もしや、恋人でもできたか?)と勘ぐったものだった。が、それ以降彼女には何も起こらなかった。
「お騒がせして、申し訳ありませんでした」
と、頭を下げたテレビでよく見る端正な顔の男は、頭を上げると、正月に会った時と同じように挑戦的に微笑んだ。
「 お義兄さん 」
「……まだ、義兄やない」
勝ち誇ったような「八縞ヒカル」こと本名、馳輝晃の表情に旭は静かに嫌悪を示した。
「俺が上京したんはほかでもない。その、報道の件や……おまえは、どう思うてる?」
「どう、とは?」
目をすがめ、輝晃は問い返す。
どこまでも癪〔しゃく〕に障る絵になる表情に、舌打ちする。
「俺は――妹の結婚の邪魔をする気はない。けどな……妹を大事にせん男にやるほど放任でもないんや」
「お兄ちゃん……」
小槙が気遣うように旭を呼んだ。
「小槙がよくても、俺の気がすまん。悪いけど、付き合〔お〕うてもらうで」
「――解かりました」
アッサリと相手は許諾して、「どうすればいいんですか?」と訊いた。
(だから、なんで、こんな時まで 標準語 やっちゅーねん!! 母国語を話せやっ)
やけに冷静な輝晃の反応に旭は毒づき、心中でツッコんだ。
*** ***
隣の座席に座った妹に兄は訊いた。
「怒ってるか?」
「ううん。お兄ちゃんがわたしのことを思ってくれてるんは分かってるから……ただ」
「ただ?」
小槙は肩の半ばほどまで伸びた黒髪を俯き加減にして、目を伏せる。
「輝くんが無茶せんか心配やわ」
「……俺に柔道で勝てる気やったもんなあ、アレは」
旭は条件を提示した時の輝晃の顔を思い出し、苦く笑う。悪いが、そう簡単に勝たせるつもりはないのだが――。
「うん。輝くんはそういうとこ、むっちゃ楽天的やし……片手間にできてしまうねん」
「ふーん。俺に 勝てる 自信はあるということか」
柔道には二十年のキャリアを持つ旭は面白くない、と口を曲げた。
「そういうんとも、ちがうんやろうけど」
困ったように小槙は大阪に向かう新幹線の窓に顔を向けて、くすりと笑う。
「なんでも悪いように転ばんって、信じてるみたいやねん。すごいんは本当にできてしまう トコロ やけど」
だから、お兄ちゃんにもきっと分かってもらえる……と、信じることができた。
「お兄ちゃん……」
「なんや?」
「 わたし、あの人が好きなんよ 」
「ああ。……成長したんやなあ、小槙」
くしゃり、と小さな彼女の変わらない頭を撫で、旭はホームに響く発車のベルを聞いた。
がたん、と車体が振動して滑り出す。
次第に走り出す景色に、わずかな寂しさがよぎった。
( これが、最後のおせっかいや )
それは兄として――自分の気持ちをしっかりと口にできるようになった 妹 への、餞〔はなむけ〕だと思う。
>>>おわり。
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