清葉番外.喪月夢想

■ 本編「清葉」の番外短編です ■
この「喪月夢想」は、本編「清葉」の敵方。
青貴妃 愛蓮の過去話になります。


 お前はいつもそうだ。

 そう、無邪気に、私だけに見せてくれる、あどけない笑顔。
 どうして、貴方はそんなにも。……こんなにも、私の胸を鮮やかに強く、優しく包んでいるのですか?
 どうして……?


*** ***


「流……」
 愛蓮はその愛しい男の胸に頬を埋めた。夜の風にかすかに揺れる御簾の向こうには、寂しげな虫たちの声が響いている。
 まるで、彼女を羨むかのように。
「ああ、そうだ、愛蓮。明日、皇城へ行くので、用意を頼む」
「また……ですか?」
 時の皇帝の治敬帝の義弟である、親帝肖流へ、愛蓮はその黒曜石よりも深く煌めくと言われた瞳を、あからさまに歪めた。
 この前、公務に出てからまだ半月と経っていない。
 もともと国政には関わらない親帝である彼が、皇城に行くのは祭礼儀礼の時だけで十分のはずなのだ。

 なのに。

「そんな、顔をするな。仕方ない、義兄上のお呼びではな……」
 胸に抱いた妻の顔を覗きこむように、流は顔を近づける。
「解ってますわ。けれど、私は心配なのです。貴方は誰にでもお優しいから……!」
 幾度かあった宮廷の女性からの妬みに、愛蓮は夫を睨んで見せる。
 その顔が優しく意地悪に笑んだ。
「妬いているのか? 愛蓮」
 その様子に愛蓮は拗ねた少女がするように、ツンと顔を背ける。
 彼の言葉が当たっているからこそ、素直に認めるのが嫌だった。
「違いますわ。ただ、その方たちが不憫でならないのです、私は」
 彼女たちは、この私に張り合おうとするのですから……と、愛蓮はそれが決して戯言ではないと知らしめる、凶器のような鋭利な美貌を香々と輝かせた。
 気高く笑って見せる彼女に、流はクッと笑いを洩らす。最初は小さくくつくつと。最後には豪快に。
「お前はいつもそれだ。素直じゃないッ!」
 言いながら、その顔は満足げに愛蓮を見つめている。
 春のように優しく、夏のように鮮やかに、秋のようにさりげなく、そして、冬のように強く……。
 どちらかと言えば文官めいた優しい顔に、長い艶やかな黒髪がさらりと落ちる。奥には闇をも切るような鮮やかな光を秘めた、やわらかな黒の瞳。
 愛蓮は応えず、ただ腕を彼の背に廻した。すこしはだけた彼が胸に接吻する。
「……お気をつけて」
「解っている」
 右の人差指がソ、と彼女を仰かせる。
 御簾の向こうでは、虫たちが彼女たちを恋焦がれるように愛の謳を歌っていた。


*** ***


 は、と泪〔なみだ〕に濡れた瞳に気づいた愛蓮は、覚めてしまった現実に胸を押さえた。

 どうして……!

 昔の夢が悪夢のような現実に、鮮やかに痛すぎる。
 どうして、目覚めてしまったのだろう。
 ずっと。……ずっと、あの世界にいられたなら……。
 と、愛蓮は乱れた純白の薄衣にかたい拳をつくる。

 いいえ。

 そうじゃない……と、彼女は泣き濡れた頬に、美しい笑みを結んだ。
 何も知らずに隣で眠る男に、ゆっくりと顔を向ける。
 蜜濡れた色香のある身体を起こすと、長い黒髪が彼の頬へと落ちた。その野太い首へ、不自然に優しい動きで彼女の両の五指が廻る。
 ――薄暗い部屋。閉めきられた戸窓のせいだろうか、時間という空間、営みという躍動が止まったように……ただ、息をつめて女の一挙作一動作に身をつめる。
 ギラリ、と黒い鮮やかな炎が、歓喜する。
 女の親指が男の咽喉を深く削り、……歓喜は溜め息になる。
 寝台から下りると、愛蓮は際にあった大きな格子窓を開けた。さらりと乾いた外の風は、露な彼女の肩を……癒えようもない、さらけでた傷をなめていく。
 空には、月がかすかに地を照らしている。
「まだ、……時期〔とき〕じゃない。まだ……」
 寝台の上からは、安らかな時の皇帝治敬帝の寝息。
 彼に抱かれ、彼女はその貴妃となっていた。
 自らの肩を震える手で抱き、遥か闇の向こうを仰ぐ。
 愛蓮は、格子の柵の向こうに聞こえる虫たちの恋歌を恋しがるように、声も上げずに静かに哭いた。


 私の月はもう、ない。
 私を優しく照らしていてくれた月は、もう二度と。


 そんな彼女の胸の内を痛むように、庭に植えられていた双葉樹の葉が嘶いた。

 カナカナと狂うように。



・・・幕.

T EXT
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