0-1.はじまりの話
「ねえねえ、菫さん」
竜崎家の夜の食卓で、母が父にウキウキとした声で話しかけた。
こういうことは日常茶飯時だったので、蒼馬は特に気にもとめず目の前のエビフライに食らいつく。
……そう、次の言葉を聞くまでは――。
「今日の蒼馬の授業参観で面白いこと、見ちゃった」
姿勢良く箸をご飯に運びながら、父の目が母を見る。
蒼馬の口の動きも一時停止した。 (何を言い出すんだ?)
と、いつも年齢を感じさせない若い母に、蒼馬は一抹どころかかなりの不安をよぎらせる。
「この子ったら、隅におけないの。ちゃっかり彼女なんか作っちゃって」
「ぶっ!」
「やだ、行儀が悪いわよ、蒼馬」
ペシと小学三年生の息子の頭をはたいた。
「な、何を……」
はたかれながら、青ざめた蒼馬は母を見上げて口をパクパクする。
「んもう! わたしが気がつかないとでも思ったの? もちろん彼女よ。猫っ毛が可愛いわよね、神楽見……」
「わーっ! 何を言い出すんだッ」
真っ赤になって絶叫する息子に、母は絶妙のタイミングで耳を押さえて微笑む。
「照れなくってもいいのに」
そして、「ねえ、菫さん?」と対岸に座る父を見る。
そんな妻を夫はおだやかに見守っている。
「わたしたちなんて、五歳には相思相愛だったのよ」
「………」
聞き飽きたなれそめ話に、蒼馬は呆れて言った。
「それは父さんと母さんが変なんだよ」
「「失礼な」」
両親二人の不平が、同時に息子へと飛んだ。
ふぅ、と息をつくと、母はしみじみと呟く。
「ほーんと、あんたってオクテよねー」
「だーかーらー、ちがうって言ってるだろー!」
「またまたー、授業中彼女ばかり見てたくせに」
「ぐッ」
母の的を射た発言に、蒼馬はくちごもる。いや、心の中では神楽見が危なっかしいのが悪いとか、またヘマをするんじゃないかとか、フォローするのは大変なんだとか……イロイロ考えていたのだが。
「『蒼ちゃん、またねー』とか言われちゃって、こぉの色男! 無愛想にしてる場合じゃないでしょ、素直になりなさい」
「う、うるさいな」
ニヤニヤと笑う母にしこたま小突かれて、蒼馬はぶすったれた。
「……いいかげん母さんを止めてくれよ、父さん!」
堪えきれず、傍観を決め込んでいる父に助けを求める。
「ああ。……おまえは本当に覚醒が遅いからなあ」
「………」
そんな、感慨深く言われても……と、蒼馬はがっくりと肩をおとす。
(誰か……)
まさにその時――。
世界が揺れた。
「ビェェェェェッ!」
「キャッ! たぁいへん!」
食卓を立つと、慌てて母は隣の部屋に向かう。
そこには、今年生まれたばかりの弟がいるのだ。
いつもは白玉のように愛らしいのだが、ただ一つの問題は泣き出すと手がつけられないほどの暴れん坊になるということ。
しかして、今回ばかりは由貴に感謝せずにいられない……と、蒼馬は思った。
あの母の追求を食い止めてくれたのだから。
いまだ、すごい騒音に耳をふさぎながら、ふかぶかと小学三年生の少年はため息をついた。
fin.
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