0‐1.眠りの地

■ 本編「紅蓮」の番外短編です ■
この「眠りの地」は、本編「紅蓮」の屈の蓮王の過去話になります。王位継承の頃。


 『窟(くつ)』……大国・清葉(せいは)の西域を主に移動する遊牧民族。寡少な人力ながら馬を操る術を持ち、機動力に優れた騎馬隊を構成する。野生の羊・山羊を家畜とし、秋から春にかけて放牧を行う。
 髪の色は清葉と同じ黒、しかし窟の色として有名なのはその瞳の色である。

 血のごとくに禍禍しく、不吉な赤。

 時に、王・候主の館から略奪さえもいとわない凶暴な民族である彼らの……それは、性格の色であるようだった。


     *** ***


 齢(よわい)はどれほどであろうか。あどけない眼差しや寸足らずな様相から、五つという数からそう遠くはないだろう。
 少年は父に引かれた右手を、本当は涙を拭うために自由にしてほしかった。が、虚空を睨みつけた父はとてもそんなことを許してくれそうにない。仕方がないので、かろうじて自由の利く左手で頬を伝う涙を拭った。
 少年は黒髪に、赤い瞳をしていた。周辺の国々の人間から「不吉」と指を指される、それは色であったが、こうもあどけないと「不吉」、と呼ぶには役不足かもしれない。
 グズグズと鼻を鳴らし、少年はどうして……と一つの小さな塚を見て訊ねた。

「どうして、ははうえを、こんなところにのこしていくの?」

 その言葉は、母の元にいたいという少年の甘えであるのかもしれない。けれど、まだ幼いこの少年では母離れしていないからといって、責められるものでもない。
 が。

「それは、我らが流浪の民だからだ」

 子の呈した疑問に降る父の声は、非情なまでに冷たかった。
 虚空を睨めつけていた彼は、想いのすべてを振り切るように身体の向きを変え……そして、母を恋しがる、まだ幼い我が子を否応なしに自分の馬へと乗せる。
 ――どうして、自分たちは一つのところに留まれないのか。
 馬の歩みに揺られながら、少年は小さくなっていく母の墓塚を見つめて、そんなことを延々と唱え続けた。



 草原。清葉の遙か西域にあたる、ここは広き草野原である。
 点々と丸い屋根を見せるのは、遊牧民の携帯用テント……「パオ」と呼ばれる物である。夏の今の季節は、家畜となる羊・山羊の世話も一段落がつき、一年の中で公然と体を休めることができる良い季節だった。
 さわさわと草の葉ずれの音も心地いい。
「父上」
 黒髪に不穏な輝きの赤の瞳が蒲団に横たわる一人の男を見つめた。薄暗いパオの下、年にして十七・八といったまだ若い青年と、その父らしい病窶れをした四十の男は二人だけであった。

 四十ほどの青年の父は、套己(とうき)といい窟の王である。青年は套己の一の嫡子で、蓮(れん)といった。
「…私はもうじき果てる」
 声は弱々しいのに、瞳だけは異様にギラギラと漲らせて父は息子に告げた。次の窟の王となるべきは、おまえだと……その眼差しは言っている。
 かわいた父の手を見つめて、蓮は何も応えなかった。昔は逞しかった父の手も、病床に床づくと細くなり、節々だけが目立つ。
 動いたその手は、蓮の若い頬を覆うと優しく包んだ。
「おまえの好きなようにしろ。気負うことなど何もない。おまえは私の自慢の息子なのだから」
 めずらしく柔らかな微笑みで、套己は言う。
 蓮は眉をしかめて、窶れた父を見下ろし息をつく。
 気弱な父など、あまり見るものではなかった。
「もう、休んだ方がいい。父上、疲れてるんじゃないですか」
「…うむ。疲れたな、確かに」
 手を蓮の頬から離すと、套己は瞼を伏せた。そう時間が開かないうちに、スウスウと規則正しい彼の寝息が聞こえてくる。
 蓮は立ち上がると、しばらくの間やせ衰えた父の姿を凝視した。
 彼の中には二つの想いがあった。
 確かにこの男の死期が近づいているという不安と……それでも、もうしばらくは生きてくれるのではないかという希望。
「好きなようにしろ、だと? 簡単に言ってくれる」
 屈辱のように野卑た笑みを見せて、蓮は眠る男から顔を背ける。パオの布を持ち上げると、太陽の射光に薄暗い中に慣れていた目を細める。
 この太陽に焼かれて、窟の人間は皆、健康的に肌が褐色を帯びている。しかし、病床に更ける套己の肌は急激に白く、不健康に染まっていく。
 目にも、その経過が見て取れるだけに蓮はつらかった。
 それが、次の王となるべき重荷からなのか……それとも、唯一となった肉親の死に目に直面してのことなのか。蓮には知りたくもないことであったが。


 水平線を境に草野原が暁色に染まっていた。もうしばらく時を過ごせば、赤紫から濃い紫へと移り、夜の戸張が野原一帯を閉ざしてしまうことだろう。
 乾いた夏の風に少し長めの黒髪をなびかせて、愛馬の馬上に腰を据えた蓮はふと息をついた。
「蓮」
 そう呼ばれて、ビクリと肩を毛羽立たせる。
 彼としては、一人きりで停泊地から離れたつもりでいたのだ。
 窟の人間にしておくには、少々文官めいた穏やかな視線……赤というよりは、オレンジに近い瞳の青年が馬に乗って近づいてくる。
 顔をしかめると、蓮はその幼なじみに舌打ちをした。
「紅(こう)か」
 紅と呼ばれた青年は、次期窟の王たる蓮の相談役であった。頭の回転が良く思慮に長けた彼は、少しばかり直情傾向にある次期王の片腕として、その能力を高く評価されている。
 その点に関しては、蓮も別段異議を唱えるつもりはない。
 ただ、時には一人で考えたいとも思うのだ。
「今、俺が何を考えているか……解かるか?」
 紫がかってきた空を仰ぎ、蓮が問う。
 ちらり、と主人の様子をうかがい、紅は何ともさらりと口にする。
「うざったい、とかの類でしょ?」
「………」
「駄目ですよ。いくら邪魔だとそんな目で訴えても、套己様の後は貴方しかいないんですから……放ってはおけません」
「本当に、うざったいな」
 心底嫌そうに、眉を寄せて蓮は呟いた。
「父上の奴も勝手なことを言いやがるし、まったく人を何だと思っているんだか」
「貴方は貴方に決まってるじゃないですか」
 ヤケクソとばかりに吐き出した蓮の言葉に、紅は当たり前のように答えを返した。
 見なくとも、幼なじみの相談役が微笑んでいるのが分かる。
「套己様もそうお考えの上で、貴方に勝手なことを仰っているんでしょうから、気負うことなんてありません」
「………」
 どいつもこいつも、と蓮は心で毒突いた。父とまったく同じことを、相談役に言われては世話がない。
 クッ、と口を曲げると、手綱を引き愛馬を無駄のない動きで回転させる。
「帰るぞ! 紅」
「はい」
 紅も蓮に促され、手綱を引いて馬の向きを変える。
 ブルル、と二頭の馬は同時に鼻を鳴らした。
 草原に乾いた夏の風が吹く。馬に股がった二人の影に、雲間から白い輝きの一番星が瞬いた。


 好きなようにしろ、と言うから好きなようにするまでだ。
 病床にある父に対して、以前とは打って変わった強い野卑た表情が対峙した。
 上半身を持ち上げた套己は、ほっと安堵をするように我が子を見る。
「定住地を探す、か。なるほど。おまえらしい答えだな」
 ふと厳しい顔になり、真偽をはかる。
「流浪の民が定住地を持つというのは、難しいぞ」
「そんなことはもとより承知よ、父上。俺は眠る場所を見つける。我らが眠れる安住の土地をな」
「そうか。……なら、好きにするがいい。私は何も言わんよ」
 モゾモゾと蒲団をかぶると、套己はそのまま溶けいるかのように深く寝入った。
 近頃、とみに彼の睡眠時間は増えている。


     *** ***


 その夏の終わりに、窟の王の交代が静かに行なわれた。それは、本当にささやかに……吹きすぎる草原の風のように穏やかな儀式だった。
 広い草野原に、王としては小さな套己の墓塚が立てられた。
 ――そして、新しい王の季節を窟は迎える。

 新しき王をもった遊牧民族・窟はしばらくの間、略奪の民として周辺の国々から恐れられることとなる。
 彼らが眠りの地……鳳夏(ほうか)の国に至るのは、若き荒ぶる王・蓮が二十の年に入る頃のことである。



・・・fin.

T EXT
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